Mag-log in第78話 五日ぶりの彼女は、知らない夏の匂いがした 五日ぶりに目の前へ戻ってきた陽菜は、見慣れているのに少しだけ知らない人みたいだった。 日焼けしている。頬と鼻のあたりがいつもより少し濃く、髪も合宿前より乾いて見えた。大きなスポーツバッグを肩に掛け、疲れているはずなのに、俺を見つけた時だけはかなり分かりやすく笑っている。「おかえり」「ただいま」 それだけ言って、二人とも少し黙った。 会いたかった。 電話でも何度か話した。メッセージもした。SNSの写真も見た。それなのに、実際に会うと何を最初に話せばいいのか分からなくなる。 陽菜も同じなのか、俺を見たあと、自分のスポーツバッグの肩紐を直した。「……何か言ってよ」「何を」「五日ぶりなんだから、もうちょっとないの?」「日焼けした」「最初それ?」「かなり」「知ってるよ。鏡見たもん」「髪も少し違う」「それは宿のシャンプーが合わなかった。ちょっときしむ」「やっぱり」 俺が答えると、陽菜の目が細くなった。「やっぱりって何」「匂いも違う」「もう分かったの?」「かなり」「まだ改札出て一分くらいなんだけど」「近いから」「近いって」 そこで陽菜が少しだけ黙り、自分でも俺との距離が思ったより近いことに気づいたらしい。 一歩離れる。「……近かった?」「別に嫌じゃない」「私がちょっと恥ずかしくなったの」「五日ぶりだから?
第77話 帰ってくる日だけ、やけに時間が遅い 陽菜の合宿最終日は、朝から時計の進み方がおかしかった。 もちろん、実際に遅くなったわけではない。そんなことくらい分かっている。それでも、朝七時に目が覚めてから八時になるまでが妙に長く感じられ、朝食を食べ終えた時にはもう十時くらいだろうと思って時計を見ると、まだ八時半だった。「帰ってくるの、夕方だろ」 自分に言っても意味はない。 陽菜からは昨夜、『明日は午前中に最後の軽い練習して、お昼食べてから帰る予定』 と聞いている。 正確な電車の時間までは決まっていない。部員全員で動くので、練習や片づけの進み具合で変わるらしい。 つまり、俺が朝から気にしたところで何も分からない。 それなのにスマートフォンを開いてしまう。 新しい連絡はない。 昨日の最後。『明日帰るね』『うん』『会いたい?』『会いたい』『私も』 そこで終わっている。 十分すぎる。 なのに、今日になると「何時に帰る」が欲しくなる。 俺は一度スマートフォンを伏せた。 そのまま本を読む。 十五分くらいは集中した。 また時計。 八時五十二分。「全然進んでない」 今度は本気で少し腹が立った。 陽菜がいなかった四日間、俺の生活はちゃんと進んでいた。 図書館にも行った。蒼と料理もした。フェチ研にも顔を出した。本も読んだ。陽菜のことを何時間も考えない時間もあった。 それでいいと思えた。 なのに「今日帰ってくる」と分かった途端、急に落ち着かな
第76話 会えない四日間で、俺の生活もちゃんと進んでいた 陽菜が合宿へ行って四日目の朝、俺は目を覚ましてから十五分ほど、彼女のことを考えなかった。 歯を磨いて、水を飲み、冷蔵庫に残っていたパンを焼いて、今日の予定を確認する。そこまでやってからスマートフォンを手に取り、陽菜とのやり取りが昨夜の「おやすみ」で終わっているのを見て、初めて「ああ、今日も合宿か」と思い出した。 別に不思議なことではない。 四六時中ひとりの人間のことを考えて生活しているほうが、むしろ不自然だと思う。 そう思ったのに、なぜか少しだけ後ろめたかった。「何でだよ」 誰もいない台所で呟く。 昨日までは、陽菜から連絡が来ないだけで気になっていた。それなのに今日は、起きてから十五分も完全に忘れていた。 十五分くらいで大げさだとも思う。 でも、感情というのは、大げさだと分かれば引っ込んでくれるほど聞き分けがよくない。 俺は陽菜へ、『おはよう。今日は蒼のところで料理手伝う』 と送った。 それから少し迷い、『そっちは返せる時でいい』 とは付け加えなかった。最近そこを意識しすぎると、文章が業務連絡みたいになる。 送ったら終わり。 返事は向こうの都合。 それでいい。 午前十時過ぎ、蒼の家へ着いた。 正確には蒼の実家ではなく、大学へ通うために借りている部屋だ。料理をする人間らしく台所だけは妙に整っている。俺の部屋より調味料が多く、普通なら一種類あれば十分そうな酢が三本ある。「何で酢こんなにあるの」「米酢と黒酢とバルサミコ」「最後だけ急に外国」「全部違うんだよ」「俺には酢」
第75話 彼女の声が疲れている時、励まさないほうがいい夜もある 合宿三日目の夜、陽菜から電話がかかってきたのは九時半を少し過ぎた頃だった。 画面に名前が出た瞬間は単純に嬉しかったが、通話ボタンを押して最初の「もしもし」を聞いた時、その気持ちは少しだけ形を変えた。『悠真』「うん」『今、大丈夫?』「大丈夫。陽菜は?」『……大丈夫』 その一言だけで、かなり疲れているのが分かった。 声が低い。普段より語尾に力がなく、息を吸う間隔も少し長い。眠い時とも違う。体だけではなく、頭まで使い切っている時の声だった。「今日、きつかった?」 聞いたあと、少しだけ後悔した。 きつかったに決まっている。合宿三日目で、朝から練習して、夕方まで走って、そのあとミーティングもあると言っていた。『かなり』「そっか」『……うん』 そこで会話が止まった。 以前の俺なら、多分すぐに何か言おうとした。 頑張って。 明日もあるから早く寝て。 合宿なんだから仕方ない。 あと二日。 でも、どれも今の陽菜が欲しい言葉には聞こえなかった。 むしろ、言われる側からしたら「まだ頑張れ」としか聞こえない可能性がある。「陽菜」『何?』「今日の練習の話、したい?」 電話の向こうで、少しだけ沈黙があった。『……今日はいい』「じゃあしない」『聞かないの?』「聞いてほしそうなら聞く。でも今は違うだろ」
第74話 知らない時間の彼女を、勝手に想像しすぎない 陸上部の共有SNSに上がった写真を見た時、最初に目へ入ったのは陽菜だった。 合宿先の競技場らしい。夕方のトラック脇で、練習を終えた部員たちが何人かまとまって写っている。全員かなり疲れているようで、座り込んでいる人もいれば、タオルを頭へ乗せたまま笑っている人もいる。 陽菜は中央より少し右。 頬が赤い。髪もかなり乱れている。多分、練習直後だ。 そして、その隣に知らない男がいた。 同じ陸上部なのだから、男子部員が隣にいること自体は何もおかしくない。 分かっている。 問題は、二人ともかなり楽しそうに笑っていたことだった。「……」 俺は写真を拡大した。 その瞬間、自分でも何をしているのかと思った。 別に近すぎるわけでもない。肩が触れているようにも見えないし、二人だけで撮っているわけでもない。十人近くいる集合写真の一部だ。 男が何か言ったのか。 別の誰かが言ったことで全員笑ったのか。 そもそも陽菜が誰を見て笑っているのかも、静止画だけでは分からない。 なのに、頭は余計な部分を補おうとする。 誰だ。 同学年か。 先輩か。 合宿中ずっと一緒なのか。 普段も話すのか。 陽菜はあいつといる時、よく笑うのか。「……またやってるな」 スマートフォンを少し離す。 柔軟剤の時と同じだ。 あの時は、知らない匂いを感じて、その匂いが男のものだと勝手に決めた。 今回は写真。 見えている情報はもっと多い。
第73話 応援してるから、全部報告してほしいわけじゃない 陽菜から「毎日ちゃんと返信しなきゃって思うと、ちょっときついかも」と言われた翌朝、俺はいつものように「おはよう」と送るかどうかで少し迷った。 昨日までなら、起きたら何となく送っていた。陽菜も余裕があれば返してくるし、忙しければ後で返す。それくらいのつもりだった。 でも一度「負担」という言葉を聞いてしまうと、同じことをするだけでも意味が変わって見える。 送ったら返さなければと思わせるかもしれない。送らなければ、昨日の話を気にして急に距離を取ったように見えるかもしれない。 考えているうちに、自分でも嫌になる。 結局、俺は余計な説明をつけずに、『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて。返信はいらない』 と打った。 そこでまた止まる。 返信はいらない。 昨日、神崎先輩に言われたことを思い出す。「返信いらない」と言いながら、相手に何かを求めている文章になることがある。 俺は最後の一文を消した。『おはよう。今日も怪我だけ気をつけて』 それだけ送る。 返事がなくても、今日は待つ。 そう決めた。 すると十分ほどして、普通に返信が来た。『おはよう。今朝ごはん。昨日の話、夜ちょっとできる?』『できる』『じゃあ練習終わって余裕あったら電話する』『余裕なかったら明日でいい』 今度は送ってから消さなかった。 陽菜からは、『うん。そういう感じが助かる』 と返ってきた。 その一言で、昨日から胸の奥に残っていた引っかかりが少しだけ小さくなった。 ただ、なくなったわけではない。